屋形船 船宿内田

深川寄り道・散歩道

タイトル
船宿内田 隅田川・深川 寄り道・散歩道

 

隅田川には27の橋が架けられています(人が渡れない橋もいれると36橋)。歴史に富んだ橋なども、多数あります
滝廉太郎 作曲の歌 「花」 でも知られるこの 『隅田川』 は、現在公式には 『荒川』 の下流部に位置する一支流ということになっています
船宿内田の通常遊覧コースで見ることのできる6つの橋をまとめてみました。

参考
【隅田川に架かる橋 】
http://www.geocities.co.jp/tokyo_ashy/b-sumidagawa.html

新大橋新大橋
隅田川で三番目に古い歴史を持つ橋です。
新大橋の名前は当時、大橋と呼ばれていた両国橋の次に架けられた、新しい橋ということからつけられています。
この橋は最初の架設から50年の間に、20数回の改修を重ねています。幕府は維持費がかかり過ぎるため廃橋にしようとしたが、沿岸の人々の反対にあい、撤去をあきらめたといいます。しかし、その後橋の経営は町人の手に移り、その維持費は通行料に依存することになりましたが、1809年以後は、廻船問屋の寄付金でまかなわれていました。
明治時代、新政府よってかけられた鉄橋は、震災・戦災に耐え、関東大震災の時はたくさんの人がこの橋に避難して助かっており、お助け橋と呼ばれました。その橋も、老朽化のため取り壊され、愛知県明治付に一部が移築保存されています。現在の新しい橋の二本の支柱には、安藤広重の「大はしあたけの夕立」の絵と、旧鉄橋のブロンズ製レリーフがはめこまれています

元禄6年(1693)
昭和53年
鋼斜張橋
橋台上部の歩道部分にバルコニーがあり、休息できる

*周辺スポット 
芭蕉記念館
御船蔵跡碑

新大橋は東洋の芸術家の広重とヨーロッパの芸術家ゴッホの両雄により描かれる栄誉を受けるなど、橋は単に川を渡るための道具だけではなく、洋の東西を問わずに多くの人々にロマンの心を与える優美な構造物である

 

清洲橋清洲橋
大震災の復輿事業で架設された橋で、清洲橋の名前は、深川清澄町と日本橋中洲町を結ぶ橋という意味で公募で決まりました。
この橋は、その当時、世界でいちばん美しいといわれたドイツ、ケルン市の大吊橋をモデルにしてつくられています。
昭和3年完成
自定式吊鋼橋
ドイツ、ライン川にかかるケルン橋をモデルとしている

*周辺スポット
平賀源内電気実験の地の石柱
深川芭蕉庵

永代橋永代橋
永代橋は、上野寛永寺本堂の余材を使い日本橋と深川を結ぶ橋として架けられました。
両国橋、永代橋とともに、江戸三橋といわれ、江戸っ子に親しまれてきました。現在の橋より 200メートルばかり上流に架けられていました。赤穂浪士の一行が討ち入りの後この永代橋を渡って、高輪泉岳寺へ向かったことは有名。 また、今日でも深川祭りで神輿がはなやぐ橋ですが、江戸時代、祭りのとき橋が落ち多数の死傷者が出たこともあります。現在の橋は大震災復興事業の時、架けかえられた橋です。 元禄11年(1698)
『永代橋』 の橋名は、当時この橋の東詰(永代側) を 「永代島」 と呼んでいたことによるが、
一説には、徳川幕府が末永く代々続くようにと名付けられたとも言われている
大正15年
バランスド・アーチ橋
「帝都の門」として力強い橋が造られた

*周辺スポット
赤穂浪士休息の地
伊能忠敬の住居跡
中央大橋中央大橋
隅田川が晴海運河と分岐したあたりに位置しています。
橋のシンボルは佃の景観に合わせた白いタワーですが、隅田川とフランスのセーヌ川の友好河川提携を記念して、パリ市の協力によりメッセンジャーと題されたブロンズ像が橋の中央部に飾られています。
平成5年完成
二径間連続鋼斜張橋
何本もの鋼線が帆船のように見えるデザイン

佃大橋 佃大橋
佃大橋は飾りのない実にシンプルなデザインで、日本の架橋技術を駆使してつくられたものといわれています。
永代橋と勝鬨橋の交通渋滞を緩和するために架設されました。架橋前、佃島と明石町の間には隅田川最後の渡し「佃の渡し」がありました。佃大橋の完成により人びとに長く親しまれていた渡しはなくなりました。最盛期は一日平均七十往復もしていたそうです。
昭和39年
連続箱桁橋
戦後初めて架けられた橋で、西ドイツ製の材料や工法で造られた
*周辺スポット
佃渡船の碑
佃島の船溜

勝鬨橋 勝鬨橋
隅田川で一番下流にある橋。
勝鬨橋の名前の由来は、それ以前そこにあった勝鬨の渡しから来ているといわれ、
またその勝鬨という言葉は日露戦争の勝利を記念してつけられたそうだ。
ここに橋をかける計画は、明治末からあったが、さまざまな事情から完成まで20年もかかっている。
架設当時、隅田川のこの辺りは、多くの倉庫群がひかえ、多数の汽船が航行していたので、船舶の通過時に橋を跳ね上げる形式の、
いわゆる 「跳ね橋」 双葉跳開橋の実現となった。3スパンの両岸側はアーチ形状の橋とし、中央径間の約 44m 部分を一対の桁橋とする。
その桁橋は左右の橋脚部を支点にして、中央が最大70度まで上方に開く。
電力を使って七十秒で開閉し、一日五回、二十分間ずつ開いて、 「ハの字」 に開いた橋の中央を大型船が通過する様は、東京の新しい名所にもなっていたという。大型船が少なくなったため、現在は開閉は行われていない。

明治38年
昭和15年完成
鋼版桁、鋼アーチ橋
可動橋方式であるが、昭和55年を最後に開橋廃止となる
*周辺スポット
かちどきの渡しの碑
十返舎一九の墓
浅野内匠頭屋敷跡
蘭学事始地